メディアアートと映像 (前編)「答えはないが、ヒントを見た。映像の先にあるもの。」

どうも、御幡です。
本業としましてはCGを用いたモーショングラフィックス、映像の演出などをしています。
この度、文化庁メディア芸術祭MEDIA AMBITION TOKYOという展覧会を見てきましたので、個人的な視点ではありますが恥ずかしながらレポートさせてもらえればと思います。

今回は前編として文化庁メディア芸術祭の感想をお話ししようと思います。

文化庁メディア芸術祭

今回で17回目となる文化庁メディア芸術祭はアート、エンターテイメント、アニメーション、マンガの4部門の作品がさまざまな媒体で表現、展示されていました。
今まではブースごとにカテゴリーで分けられていたのですが、今回は大きなホール内に壁などがなくすべて同じように展示されていたせいかも知れませんが、全体的に規模縮小している感じがありました。しかし、その新しい展示方法のおかげで、カテゴリーによる差別化がなく「表現」は「表現」として同じ土俵で展示されているため、人の集まる場所、人の興味の流れがわかりやすくなっていたのは新鮮でした。

同じ土俵にたった時にやはり目を引き賑やかだったのはオブジェクトや装置など圧倒的に存在感のある数々のメディアアート作品でした。
泡をポンプ装置から下から上に生み出し、常に変化し続ける巨大な泡の塊の作品「  を超えるための余白」から、カールステン・ニコライ氏の電磁波を視覚、聴覚化したアート作品「crt mgn」までどの作品も目の前に存在するモノとしての説得力があり、個性的で、なるほどと思わせるものばかりでした。

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魅力的な作品は数多くありましたが、その作品の中で一番印象に残ったのは、和田 永 氏の時折織成 -落下する記録-という作品です。
簡単に説明しますと上から磁気テープがケース内に流れ落ちているのを眺めるというメディアアート作品。4つ均等に設置されたケースの中に上にあるオープンリールからゆっくりと磁気テープが垂れてきます。カセットテープのテープがむき出しになっているものを想像してもらうとわかりやすいと思います。ゆっくりゆっくり黒く長い物体が白く発光したケースの中にまるで長い帯を折り畳むかのように幾重にも重なり合い束になっていきます。その折り畳まれた紋様は時に規則正しく、時に乱雑です。とてもミニマムな中に一つとして同じでない動きと形のバリエーションは見ていて飽きません。

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そしてそんな「静」を体現をしているのはヴィジュアルだけではありません。
ゆっくりゆっくりとテープを垂らしているということは音楽再生機としてその役目も全うしています。本当に気にしないとわからないくらいの小ささでスロー再生時の音のようなゆっくりとした低い音が流れています。

この作品には、「静」だけでなく「動」の部分もありました。テープがすべて下に垂れ終わった後、少しの静寂とともにその物語は始まります。4つあるすべてのオープンリールがあるべきピッチでテープを巻き上げていきます。テープに収録されている交響曲が鳴り響く中、上に巻き取られていくテープの動きは圧巻の一言です。垂れ下がってる時のゆったりとした動きとは逆にとても勢いがあり、攻撃的です。力強さの中に不安定さを感じとれ、とても不気味で魅力的でした。

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印象に残っているのはテープが巻き上げられ交響曲が流れるときの「静」の時にはなかった観衆の集まり具合と、勢いよく巻き上げられていくテープの動きの不気味さを少し戸惑いながらもこれは何なんだ?と理解しようと眺めている子供の不思議そうな姿でした。すべて巻き上げられ、またゆっくりとテープが下に垂れていく時の観衆の人だかりがざわざわと違う刺激を求めて散らばる様子は見ていてとても心地よかったです。瞬間を、人の意識を拘束して共有することができた、動きの中にある緊張と物語の終わりの緩和、何ともいえない儚さと満足感、そういったエネルギーがそこにありました。ステキです。

ただ逆に映像作品と分類されるものは、見ている人の時間を強制的に拘束するという特異性からメディアアートとして同じ土俵に立ったときの、その展示方法のあたまうち感は否めませんでした。

もちろん、展示されている映像作品は魅力的で、制作におけるプロット、絵コンテなどの資料は見応えがありました。
ですが、映像作品単体として、まず足を止めてもらって作品の世界に没頭してもらうという時間の拘束へのハードルの高さと展示物としての展示方法の完成度からの進歩のなさが、興味のあるものを自由に見聞きできるという今回の会場において見劣りを感じてしまい、映像という媒体で戦っている者としてはなんとも歯がゆく感じました。

そういった中で、映像との共存がうまくなされていた作品がありました。
アイルトンセナの世界最速ラップの走行を再現した「Sound of Honda / Ayrton Senna 1989」という作品です。

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アイルトンセナが鈴鹿でたたき出したファステストタイムのデータから、彼の記録を実際の鈴鹿で光と音で再現した記録映像。もちろん映像としての完成度は僕なんかがあえていうのものおかしいほどの完成度になっています。そこには映像作品だけでなくこのデータを実際にCGの走行アニメーションに落とし込み、観客が手元のタッチパネルでカメラ視点や表示するデータを選んでいろんな角度から再現走行を楽しむコンテンツ作品もありました。これはメディア媒体として「映像」を見るということ、人の足を止めるとことの難しいところに体感という体験をあわせることで記録映像を見ることのハードルを下げ、映像への導入がスムーズにいっているようにも感じました。いつでも触れる記録の「体感」と定期的に流れる記録の「視聴」この二つがあってこそ人の興味がぶれることなくそこに留まっている気がしました。

選択肢を自由に与えられた時に単体で映像を見てもらうということは、なかなか難しいことです。「映像をいかに見てもらえるか?その場で立ち止まってもらえるか?」これは、映像作品を作るものにとって宿命であり命題です。ネットの進歩、技術の発展によって映像という情報の取得は容易になりました。見る人が選択して当たり前、興味がなければちゃんと見てもらえません。そういった中で映像を作品として見せる方法の差別化として、プラスαなエッセンストとしてよりインタラクティブなものをという傾向があるのではないでしょうか?ですが、それも現状の段階の話で、答えではなく、今後の技術の進歩とともに変容していくもので、そうあるべきです。そして、そういう次々に形の変わる表現の中で揉まれながら自己表現をしていくとこは、とてもやりがいのあることだと思っています。

次回はMEDIA AMBITION TOKYOについて語ろうと思います。 後編

御幡


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